かん助の松



 神坂の湯舟沢に、細野というところがある。細野は、むかし、東山道が通っていた。
 細野に、高野山というところがあり、お城があった。
 城の近くに、それは、大きな枝ぶりのいい松が、一本あって、その松に登ると、湯舟沢や、神坂峠の方まで 見渡すことが出来る、見はりの松があった。
 その見張りの大しょうに、かん助という人がいた。
 いつも、けらいを二、三人 つれて、見はり番をしていた。
 かん助は、松の木にのぼって、
「やあ、これはよう見えるわい。」
と、毎日、神坂峠の方を 眺めていばっていた。
 けらいは、松の木の下にいるので、何も見えない。
「おい、かん助、てめいだけ いい気になって いばっておらず、おれにも見せろよ。」
と、下から見あげていった。
 しかし、かん助は、
「おれは、見はりの大しょうだ、おれだけのぼっていれば、いいのじゃ。」
「てめいらは役にたたんわい。」
と、木の上で、いばっていた。
 ある日、あまり かん助がいばるので、けらいたちがそうだんして、かん助が 松へのぼれないように、枝を切ってしまうことにした。
 夕方、かん助が、一日の見はりをおわって、
「おれが、見はれば、敵もこぬわい、見はりかん助、命の松よ、立派なかさ松細野のやねよ。」
と、はなうたを歌いながら、帰っていった。
 かん助がいなくなるのを待っていたけらいたちは、
「それ、枝切りに、かかれ。」
と、大きな おのをふり上げて、松に切りかかった。
 ところが、どうしたことか、おのがくすがらない。
「おかしいぞ、もう一度、力いっぱい、ふりおろせ。」
と、いって、それっと、切りつけた。
 すると、「ド…………。」と大きな音がして、切口から、赤い汁が ふき出てきた。びっくりしたけらいたちは、その場に たおれてしまった。そして、真青になって、にげ帰った。
 そんなことがあってから、細野部落の人たちは、かん助けの松を切ると、音が出るとか、血をふくとか 言って、だれ一人として 松を切る人はいなかった。
 ところが、明治四十年ごろの台風で、かん助の松の枝がおれて、みにくいかっこうになってしまった。
 そこで細野部落の人が、全員集って そうだんしたが、だれも切りに行く人はいなかった。となり村のすえ吉という人がその話を聞いて、
「よし、おれが、ひとつ切ってやろう。」
と出かけて来た。
 細野の人たちはみんなで、
「やめてくれ、おそろしい。」
「たたりがあるぞ。」
と、いって、心配そうにしていた。しかし、すえ吉は、
「なあに、たたりなんかあるものか。」
と、みんなの心配をあとに、一人で、かん助の松を切りに出かけていった。
 行ってみるとさすがのすえ吉も、しばらく 眺めていて、
「こりゃあ、りっぱな松だ、切るのはもったいないわい。」
といった。でも切ってやると、いばって出かけて来たので、意を決して、枝におのをふりおろした。
 すると、すえ吉は、急に苦しくなって、手足をばた、ばたさせて たおれてしまった。この様子を遠くから見ていた細野部落の人は、びっくりして飛んで来て、
「やめれ、やめれ。」
といったが、すえ吉は、少したつと 立ち上って、二度めのおのを、かん助の松へ、「えい。」と力いっぱい 切りつけた。
 すると、かん助の松は、「ド…………」と大きな音を出した。
 そして、切り口から、血をふいた。
 細野部落の人や、すえ吉は、びっくりして にげ帰った。
 すえ吉は、やっとのことで 家へたどりついたが、とう、とう熱を出して、ねこんでしまった。
 それから、細野部落の人は、だれ一人として、松を切るという人は いなかった。 その松も、昭和三十四年の伊勢湾台風でたおれてしまい、いまは、かぶが残っている。

文・鈴木 佐代子
絵・加藤  公雄

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