日比野蔵人の死



 日比野蔵人という人は、天皇に仕える、身分の高い人であった。
 そのころの都では、口の上手な人や、陰で、ひとを、おとしいれる人たちが、力を持っていたので、正直者の蔵人は、都がいやになり、自由の身になって、日本中を廻ることにした。
 各地を廻って、苗木へ来た時には、春の始めで、新緑のむせかえるような平原が、見渡すかぎり、つづいていた。
 東には、舟を伏せたような恵那山、西には、笠を伏せたような笠置山が、ひときわ高くそびえている。
 その山の間を、木曽川が、地面を深くえぐり、奇怪な動物の形の岩が、両岸に立ちならび、その岩の間を、草木の芽が、あるいはうすく、あるいは濃く、ときには赤く、いろどっている。
 蔵人は、美しさに、深く心をうたれた。鳥やけものも多いようなので、しばらく、この地に住んでみようと思った。
 何日か過ごしているうちに、米や麦などの、人のたべるものが欲しくなった。
 平原の東に川があり、そのむこうに、十数軒の人家が見られた。
 川を渡り、人家に着くと、
「何か、たべるものを、分けてくれ。」
と、大声で、よびかけた。
 村人は、蔵人の乞食のような姿に、恐れて、鍬をふりあげた。
「わたしは、賊ではない。それ、金も持っている。」
 そういっているうちに、人々が集まってきた。
 村人がよく見ると、なりは乞食だが、眼は、すんでやさしそうである。
(これは、立派な、お坊さんかもしれん。)
というので、村人たちは、御馳走を作ってもてなした。
 蔵人は、都の近くには鬼が住んでいるが、本当に恐ろしいのは、鬼ではなく、御殿に住む人の心だといった。
「人の心が恐いというのは、なぜですかの。」
と、村人が尋ねると、
「鬼は、力づくで物を奪うが、何もないものからは取りゃせん。御殿に住む人は、気にいらん者は、罪をなすりつけて、殺してしまう。」
 海の話もした。
 家ほどもある波が、次から次へとおしよせる話をしても、村人は、なかなか信じない。紀伊の熊野神社のお札を見せると、
「この村に、神様をお祭りしたいと思っていた。ぜひ、そのお礼をお祭りしたい。」ということで、小さなほこらを建て、熊野神社と名づけた。
 その後、村人たちは、少ないなかからも、食べ物を分け、蔵人も、鹿やいのししが取れると、村人に分けた。
 蔵人が、身分の高い人だということを知ると、
「日比野様。」
と、村人たちが呼ぶようになった。蔵人は、
「今は、みんなと同じ村人だ。」
といっても、
「わしらに、くげ様の友達なんて、もったいなくて…。」
と、みんなの尊敬があつまった。遠くの村からも、名前を聞いて、尋ねてくるものもあった。
 やがて、蔵人のことが、お城に伝わった。
 お城の重臣たちは、
「村人たちを手なづけて、やがて、お城をのっとるつもりやも知れぬ。」
「早いにこしたことはない。」
と、何事か相談をはじめた。
 そんなある日、その日は、よい天気だった。東の大牧ケ原に、とても大きな雄鹿がいるという話を聞いて、蔵人は、鹿追いに行くことにした。
「だれか、わしといっしょに鹿追いに行く者はいないか。」
 すると、村人たちは、家から顔だけ出して首を振った。不安におびえている。口をぱくぱくしているものも、ほかの村人におさえられた。
 すると、裏手から、五人の農民が出てきた。今まで見たことのない顔である。
「日比野様、わたしらが、お供しますに…。」
「おゝ、いっしょにいってくれるか。」
 蔵人は、気楽にいったが、こいつらは、盗賊にちがいないと思った。それならいっそう、盗賊たちを引きつれていった方が、村のためにいいかも知れぬ。
 歩きながら蔵人は尋ねた。

「おまえさんたち、どこの村の衆かな。」
「わしらは、大牧ケ原のむこうの瀬戸村のものですわい。」
「ところで、日比野様は、都では、たいへん身分の高い方とか…。」
「忘れた、むかしの事は。わしは、この村のひとりじゃ。」
 五人は、顔を見合わせた。
「そんなえらい方が、なぜ、こんなところへ…。」
「こゝはいいところじゃ。人間どうし、争うこともない。人を疑うこともない。」
 蔵人は、いいながら、
「おまえさんたち、盗賊ではないか。盗賊でもいい。この村の人たちは、平和にくらしている。ここからは盗らないようにしてくれ。」
 五人のなかのひとりが、たまりかねていった。
「わたしたちは、武士です。殿様の命令で、あなたの生命をいただきに来ました。」
 蔵人は、おどろいた。
「なぜ、殿様がわたしの生命を……。」
「あなたが、村人をそそのかして、お城を取ると、殿様は、疑っておられる。」
 蔵人は、
「都の人の心のきたならしさに逃げてきたわたしが、なぜ、そのような…。」
「日比野様の気持ちは、よくわかります。けれど、われわれは、あなた様の生命をもらわなければなりません。」
 すると、もうひとりが、
「あなたを殺したくない。ここから逃げてください。」
 けれど、蔵人は、心を決めた。
「わたしは、もうどこへも行きたくない。殺すなら、殺しなさい。」
 六人は、しばらく、だまって向い合った。
「では、ごめん。わたしは、あなたを殺したくない!!」
 といいながら、刀を振った。
 蔵人は、避けようともしなかった。
 蔵人の死が、村に伝えられると、村人は悲しんだ。
 お城から『蔵人は、城を取ろうとした大悪人。』という布令が出されたが、だれも信じなかった。
 人々は、その名を忘れないようにと、この村を日比野村と名づけた。

文・三宅 正幸
絵・加藤 公雄

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