ひげを落とした巡査さん



 わしのいとこに、六尺近い大男で、力も強く武術もよくできる人がおった。
 その人は、明治政府ができると、運よく、じゅんさに取り立ててもらい、若いくせに、鼻の下に、太くて黒い八の字ひげをはやして、いつも、人差指と親指の先で、ひげをピーンとねじり上げておるのが、大のじまんだった。
 明治十年の年のくれのことだった。朝からしぐれもようの日で、どこの家でも、お正月をむかえるしたくにいそがしかった。
 わしの家でもせわしかった一日がくれて夕飯がすむと、とうさまは書斎に引きこもり、かあさまは女中といっしょにお勝手の後片づけをすませ、戸じまりを見回わっておられた。
 ちょうどそのとき、どこか遠いところから、ワァーという声が風にのって聞こえてきた。かあさまが聞き耳を立てると、日比野の台地あたりで、パシッパシッと木のはぜるような音がして、裏口のしょうじに、赤黒いかげがうつった。
「火事だ、火事だ!青山さまのお屋敷が火事だッ。」
という声が、とぎれとぎれに聞こえ、その声のあいまに、ワアーッ、ワァーッ、という、ひめいとも、かんせいともつかぬさけび声があがるのが聞こえた。
 裏口をあけて見ると、高台にある、青山さまの屋敷のあたりに赤い火が見え、黒けむりが、もくもくとあがり、人々がうろうろするのが、かげえのように見えた。かあさまは、くるものがきたと、さとられたそうな。

 青山さまは、国学をまなんでいた方で、まえまえから幕府の政治をやめて、『日本の国の政治を、古い政治のしくみにもどし、神をまつり、天皇中心の政治にあらためて、新しい国をつくる』という考えの方だったので、明治維新のときには、いち早く天皇方につくことを、お殿さまにおすすめになっていた。
 それで、お殿さまは、ほかの大名よりも早く、自分から苗木の領地を、天皇方にかえし、苗木藩の家来たちにも、武士の身分をすてて、農民になるようにとおすすめになった。苗木藩は苗木県にかわり、お殿さまは、苗木県知事になられて、青山直道さまも、二十四才の若さで県知事を助ける大参事(副知事)の役につかれた。ほかの武士たちは、農民にさせられたので、今までのように、殿さまからふち米や給金がもらえなくなった。そのうえ、早く農民になっていたので、新政府から武士がもらえることになった金も、もらえなかった。
 青山さまは、新しい日本をつくるには、佛をおがむことをやめて、神さまだけをおがむようにかえることがだいじだと、信じておいでだった。どの家も、まつってあるご先祖さまのいはいと、佛だんを、のこらずやきすてよ、苗木中のお寺も、お堂も、全部うちこわし、やきはらって、誰もかも、神さまだけをまつっておがむようにせよと強くおめいじになった。
 三百年この方、大切にまつっておがんできた佛さまや、お寺をこわすことは、人々にとっては、ばちがあたるほどもったいなく、死ぬほどおそろしいことだった。あまりのかなしさに、佛さまといっしょにやけ死のうとした者もおった。
 その上、青山さまのやり方に、少しでも、反対したり意見をはさんだだけでも、重いばつをうけた。殺された者もいて、むりやりしたがわせようとされる青山さまを、人々は、ひどくおそれ、また、たいそうにくんでいた。
「いつか、きっと、殺してやる。」
と、口ばしる者までおった。
 やがて、火事も下火になりだしたころ、ヒタヒタとかすかな足音がして、お勝手口を、ホトホトと、たたく者がおった。
「もし、ご家老さま……。ご家老さま……。ここを、おあけくだされ…。」
 低くて、の太いその声は、聞き覚えのある声だった。かあさまが、
「どなたやえも、今開けてあげるでなも。」
と、お勝手口へ行ってあけられると、ほおかむりした男が二人とびこんできた。
「ご家老さまにお取りつぎを…。今、あの、にくい大参事の家に、火をつけてまいりました。どこにもにげばがありません。どうぞ、おかくまいを…。」
 かあさまは、とっさに、二人の武士を家の中に入れると、かたくお勝手口をしめて、とうさまに知らせにいかれた。
 わしの家は、家老の家だった。
 とうさまは二人を見ると、だまって、書斎につれてはいられた。
「年のくれの二十八日ならば、大参事も、県庁から家に帰ってきていると思って、わしら、四人で殺しに行きました。口に短刀をくわえ、手にじゅうをもって、高いへいをのりこえてとびこみましたが、奥ざしきには、奥さまがお子に学問をおしえておいでになっただけで、どこにも大参事の姿はみえませなんだ。『青山は、まだ帰っておりませぬ。おうたがいならどこでも、おさがしなされ。』と、きちんとすわっておいででした。」
「わしらは、どこかにかくれておりはせんかと思い、なやから馬屋、みそべやに、くらの中までくまなくさがしましたが、どこにもおりませぬ。くやしくて、とうとう、屋敷に火をつけてきました。」
「二人の者は家に帰ったが、わしら二人は帰る気になれず、にげてきました。ここが一番安全でございます。どうか、おかくまいください。」
 とうさまは、じっと腕を組んで聞いておられたが、かりにも前までは苗木藩の家老だったし、今こうしてにげこんできた、武士たちの気もちもよくわかり、そうかといって、いつまでもかくまい通すこともできるはずもなく、何とかして二人を遠くへにがしてやりたいと考えられた。
 とうさまは、かあさまにも家の者にも、二人の来たことは、誰にも言ってはならぬと、固く口止めされた。
 火事がおさまったと思ったとき、ガッチャン、ガッチャンと、くつ音がして来て、玄関をドンドンとたたいて、
「おじ上、おじ上。」
と、大声でどなる者がおった。かあさまは、とっさに二人のはきものをかくすと、玄関をあけられた。
 ドスドスと入って来た者は、あの八の字ひげをピーンとはやした、いとこのじゅんさと、もう一人の見知らぬじゅんさだった。
「おば上、ひどい事になったわなも。青山さまのお屋敷が丸やけになってしまって。石戸んたあ(たち)のやった事だとはお調べがついている。あいつら、前々から、殺してやると、いきまいていたでなも。それにお屋敷の下男たちが顔を見ている。村井さんたち二人はつかまえたがあとの二人がつかまらん。ひょっとすると、あいつら、ここににげこまなんだかえも…。」
 その大声は、家中につつぬけで、奥の書斎までまる聞こえだった。
 とうさまは、とっさに床の間の掛じくの裏の壁に手をかけられた。そこは、ドンデン返しの壁で、ぱっと穴があくと、二人をおしこんで、
「しゃべるな、動くな。助けに行くまで、このかくし間でじっとしておれ。」
と早口でいわれて、ドンデン返しの壁をスッと元に戻すと、知らん顔で書斎にすわっておられた。そこへ、八の字ヒゲをはやしたいとこがはいっていった。
「そうぞうしい。誰も来はせん。家中さがしてみよ。」
といわれた。八の字ヒゲのいとこは、家中さがしまわって、座敷へもどると、
「やつらが、にげこむならこの家だで、おじ上、ここで待たせてもらうでなも。」
といって、書斎の横の座敷に、デンとすわりこんでしまった。
 とうさまは、かあさまに目くばせして、
「弥兵エ次に、夜食を食べさせて、ふろへでも入れてやれ。」
と、お命じになった。かあさまが夜食をだすと、二人はガツがツと食べて、かあさまのわかしなおしたふろへ入ることにした。
 ふろ場へ行った八の字ひげのじゅんさは、そのヒゲをピーンとひねりながら、
「あいつらがくると、幼ななじみやで、わしのこの八の字ひげをみると、すぐに気づいてしまう。何かいい工夫はないかのう。そうだ、このヒゲをすりおとして、百姓の着物を着とれば、よもやわしとは気づかず、ゆだんしとるにちがいない。あす、ひょっと渡しで会っても気づかれずに近づいてつかまえる事ができるわい。おば上、かみそりとかがみをかしておくれんされんか。」
 かあさまが、かみそりと、かがみを出してやると、弥兵エ次さは、
「せっかく毎日手入れして、これまでのひげにしたのに、おしいこっちゃ。おしいこっちゃ。」
といいながら、さも、ざんねんそうに、じまんの八の字ひげを、ザリッ、ザリッと、そり落してしまわれた。
 ドンデン返しの次のかくし間は、かあさまの部屋の押入れに通じていたので、ひげをすり落している間に、とうさまは、二人を、そっと、かあさまの部屋からえんがわに出して、裏庭のうえこみの木の間から、裏山づたいに木曽川の渡しの方へ行けるように、にがしてやられた。
「苗木領内は、あぶないで、木曽川を渡り、名古屋の方へでもにげてみよ。」
といって、かあさまに作らせたにぎりめしを持たせて、そっと送り出された。
 だが二人は、にげおうせずに、ほかのじゅんさにつかまえられたそうな。


 わしが大きょう(大きく)なってからきいた話じゃが、にげた二人が、そのとき、ドンデン返しのかくれ間にひそんでいた事を知ったいとこのじゅんさは、
「あのとき、おじ上の家に、ドンデン返しのかくれ間がある事を知っとったらじまんのひげをすらんでもよかったのに……。それに、この手で二人をつかまえて手柄にできたに……。今思っても、ほんにおしいことをしたわい。」
と、いつまでも、くやしがったり、おしがったりしたそうな。
「八の字ひげをすり落したときの、弥兵エ次さの顔は、そりゃあ、だだっぴろいだけの、何ともしまりのない顔で、みるのも気の毒じゃったでなあ。」
「おまけに、笠松からきたえらいじゅんささまに、弥兵エ次さの方が、あやしまれてつかまっての、おかしいやら、むごいやらでの……。」
と、いつも、いつも、話してくだされた。
 わしは年を取った弥兵エ次さの顔を見るたびにかあさまの口ぐせを思いだしては、わらいをこらえておったものよ。

文・青山 のぶ子
絵・大橋 寿美代

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