覚明石



 むかしむかし、覚明という行者がいた。木曽の御岳山をはじめて開いたというえらい行者だ。
 覚明行者は、今から二百六十年も前というから、江戸時代の中ごろ、尾張の国に生まれたそうだ。子どものころには、いろいろのことがあって、たいそう苦労をしたそうだが、ある時、一大決心をして、修業のために、ただ一人で、四国八十八ヶ所をお参りする旅に出た。
 覚明行者が、土佐の国の足摺山中にさしかかったときのことである。もう日はとっぷりとくれていた。急な山道を登っているとき、今まで肌身はなさず持ち歩いていた大切な鉦鼓が、どうしたことか二つに割れてしまった。
「どうして鉦鼓が割れたろう。」
と不思議に思いながら、近くの大きな木の根元に腰を下して考えていたが、旅の疲れか、そのうちに眠ってしまった。すると、白い衣を着た人があらわれて、
「お前に鉦鼓をさずけよう。この山中を探せ。」
という。
「あなたはどなたか。」
とたずねると、
「私はこれより東方、御岳山に住む白河権現だ。今日からお前に覚明の二字をあたえる。お前は今からふるさとへ帰って、信濃の霊山を開くがよい。」
と言った。
 夢からさめた覚明行者は「これは神のお告げに違いない。」とまだ夜も明けきらないのに、山中を探し歩いた。すると、光り輝く石が見つかった。石を取ろうとすると、持っていた数珠が石の上にずり落ちて、チリンというよい音をたてた。石を取ってたたいてみると、前の鉦鼓と少しも変らないよい音がした。
「これこそ神仏の加護に違いない。」
と、覚明行者は、それから一生涯この石を鉦鼓として持ち歩いたということだ。
 今、中津川にある覚明石というのは、この石であるということだ。
 白河権現のお告げをうけた覚明行者は、尾張の国に帰って来た。そのとき、ふるさとの五条川は、はんらんして川水があふれていた。覚明行者は、持っていた金剛杖を流れの上に浮べ、その上を一本歯の下駄で、さっさっと向こう岸へ渡っていった。これを見た村の人たちは「これが神通力というものか。」と目をみはったそうだ。
 それから、覚明行者は、霊山を開くために木曽へゆく途中、ここ中津川の子野の槙坂の茶屋で一休みした。覚明行者は休みながら、茶屋の主人古根佐次兵衛に、御岳山の参道を開く決意を話した。佐次兵衛も心打たれて、
「それは、大事業でございます。私もできることは力添えしましょう。」
と言って、覚明行者の宿を引きうけたそうだ。
 それから何年かかかって、苦心に苦心を重ねた末、覚明行者は、御岳山の参道を開いた。その間に、尾張と木曽を何回かゆききしたが、そのたびに、ここ槙坂の古根佐次兵衛の茶屋に泊り、佐次兵衛に勇気づけられたということである。
 覚明行者が、最後に木曽の御岳へ向う時のことである。いつものように、槙坂の茶屋に泊った。主人古根佐次兵衛に、
「長い間、お世話になりました。お礼の印に、私が諸国の修業行脚に用いた鉦鼓の覚明石と、湯呑と、数珠を置いてゆきます。もし何かのときには、これを祭って信心してください。私は御岳の神となってお守りしましょう。」
と言い、
「叩かれて人の募る鉦鼓石、覚明石と人に知らせん。」
の一首を残して、旅たったということだ。
 今、この覚明石は、チンチン石とも言って、東円寺近くの朝日山の覚名様にあり、覚明行者の数珠、湯呑、金剛杖とともに御神体として大切に祭られているということである。

文・花田 玲子
絵・加藤 公雄

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