阿寺白米城

 むかしむかし、四百年程前、手賀野に阿寺城という城があった。後ろにはけわしい山をひかえ、前は中津川を見下ろす絶壁で、自然を配した要害の地であった。この城は、岩村城主加藤景康が東山道を押えるための要害として築いたもので、遠山友重が守っていた。
 この頃、武田信玄の子ども勝頼は、信玄の死後、勢いの衰えた武田勢を盛り返すために五ヶ国の軍勢を二手に分けて織田勢である美濃の国へ攻め入った。
 武田勝頼の家来である木曽義昌の本隊は、木曽福島から伊那路をぬけ上村に入り織田方に味方していた串原、明智、飯羽の城を攻めた。他の一隊は、木曽から攻め入り霧ヶ原城、落合城、中津川督ノ城を攻め落とし阿寺城へ向った。その知らせを受けた阿寺城の城主、遠山友重は城下の百姓たちに言いつけ籠城のための米や野菜を集めて敵を迎え打つ準備をした。
 木曽義昌は中津川をはさんで前山の麓の小高いところに本陣を構えた。阿寺城への道はけわしく、なかなか攻め入る手だてがない。食量攻めか、水攻めにするか、敵の武将たちは頭を寄せて協議した。
「食量は大分ため込んでいるようす、今は水攻めより手がない。阿寺城への用水路を切り落すことだ。」
 杣人たちが集められ阿寺城の西の山へ登った。城の用水路は、杣人たちの斧で次から次へとたち切られていった。この辺りを斧戸というのはこのためである。こうして水路をたち切られた阿寺城では、貯えた水も残り少なくなり家来たちの間にも心配の色が広がって行き、次第に戦う気力を失って行った。
「誰かよい知恵はないか。」
 友重は家来全員に水攻めから抜け出す方法を考えさせた。その時、一人の侍がすゝみ出て、
「今、残っているのは米だけです。この米を使って水に見せかけ、敵をあざむく、というのはどうでしょうか。」
と言った。どうするすべもなくなった今では何でもよい、やれることはやってみようということになった。
 米倉から白米が運び出された。侍は月の出るのを待ってやぐらに上った。
「やあやあものどもよーく聞け、われらが城にはまだまだ水があるぞ、見るがよい。」
と大音じょうを上げて、大きなひしゃくですくった白米を、水を流すようにサラサラと高い城の石垣から流し落した。白米は月の光に照らされて、敵の目にはまるで水が落ちるように見えた。もう城内には水はなくなる頃だとたかをくくっていた敵方は、
「りゃりゃあ、あの水を見よ、もうないと思った水が惜しげもなく流されている、いったいどうしたことだ。」
と騒ぎ出した。いつ落ちるか、もう明日にも降参するのではないかと待ちに待っていた敵方は、気がゆるんであっけにとられていた。この時である。
「わあ、わあ、わあ。」
阿寺城の城兵たちがいっきに敵陣へ打って出た。敵はあわてふためき、さんざんな目に合って逃げて行った。
 白米を流して、水攻めからのがれたこの城のことを、それ以来「白米城」と呼ぶようになった。
 しかし、阿寺城は再び攻められて落城したのである。その戦いのはげしさは今に残る黒血ケ洞、箭竹という地名にもうかがい知ることができる。

文・加藤 千満子
絵・大橋 寿美代

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