うしろむき薬師



 むかしむかし、今から千年以上もむかしのことだ。最澄というえらい坊さんがいて、唐の国へ渡り佛教を学んで帰った。そして、京都の比叡山に登り天台宗という教えを開き、その教えを広めるために諸国をあちこちとまわって歩いた。
 この最澄が、東山道を通って東国へ行かれる時のことである。この辺りは道も嶮しく、あまり人が通らないために草はおおい茂って道をふさぎ、大雨のために道は川原のように石ころがごろごろしていた。旅人たちは、食べるものを背負ってこの山道を通ったのだが、雨に逢っても雨宿りする所もなく、時には病にかゝったり、飢えたりして死ぬ人もあった。
 最澄は、中津川から落合を通り神坂峠を越えようとされた。山を越え谷を渡って峠の嶮しい道にさしかかった。中津川から信濃の国の園原までの道のりは遠く、途中には休むところも泊るところもない。夜になると狼におそわれたり、きつねやたぬきに出逢ったり、熊が出たり、それはそれは大変な難所であった。
 最澄は、なんとかして旅人を救わなければならないと考え、神坂峠の高いところに立って、山や谷を見まわした。そして、この峠に、旅人の休泊所を建ようと考えた。最澄は峠をくだり、あちらこちらの部落をまわって、休泊所を建てることを話した。最初のうちは、少しも話しを聞いてくれなかった村人たちも、最澄の熱心な教えに心を動かし、何とか協力してくれることになった。長い長い月日がかかった。とうとう、峠の西側と東側に広済院(今の霧ヶ原)と広拯院がたった。
 最澄は、旅人が無事旅が出来るようにと、自分で一米ほどの木の薬師如来像を彫り路傍に祭った。この薬師如来像は右手を上げ左手に薬壷をのせている。
 その後、この薬師如来像について面白いはなしが伝わっている。

 ある日、馬に乗った武士がこのお薬師さまのお堂の近くまでくると、どうしたものか馬が前に進まない。
「どう、どう、どうしたのだ。」
 しかし、馬は足ぶみをしていてどうしても進もうとしない。
「どう!どう、どう!」
 武士は腹を立て馬の尻にむちをあてた。
「ひひーん。」
 馬は前足を高く上げていななくと、たて髪をさか立てて走り出した。武士はどんでんがえって馬の背から振り落された。ところが、不思議なことに馬に乗ってお薬師さまの前を通る人は、みんな馬から落ちてしまうのである。村人たちは、
「お薬師さまの前を馬に乗って通れないのは、なにかの祟りにちがいない、霊験あらたかなお薬師さまだから、村にまでなにか祟りがあると大変だ。」
と心配した。
「お薬師さまの前を通るのはやめようではないか。」
ということになり、お薬師さまをうしろ向きに安置した。それからというものは、馬に乗って通っても落馬することはなくなった。こんなことがあったので、村人たちは、いつの間にかこのお薬師さまのことを
「うしろ向き薬師。」
と呼ぶようになった。
 今、この薬師如来像は、東円寺のご本尊として国宝に指定され、裏山の立派な奉安堂に祭られている。年一回開帳される。最澄は後の伝教大師である。

文・加藤 千満子
絵・藤原   梵

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