兄の井 弟の井



 むかし、恵那山のふもとの落合村に、二人の兄弟が住んでおったそうな。今から七百年くらい前、鎌倉時代のことだがの。
 このあたりは、川が深く谷をえぐって流れておっての、田んぼはいくらもできなかった。それで、村の人たちはの、木曽谷や伊那谷へ荷物を運ぶ仕事をしては日銭をかせいでおったと。けれども、地頭や名主からの年貢の取りたては年々きびしく、くらしは苦しくなるばかり。誰もが、もっと田んぼがあったならと思っておったが、見まわせばまわりは山ばかり、こんなところへどのようにして水を引いたらよいのか、見当もつかなんだと。
 ところが、この二人の兄弟はの、何とかしてこの村に水を引いて田んぼをふやしたいものだと、本気で考えておった。
 ある晩のこと。一日の仕事を終えてやっと床についたとき、弟がいいだした。
「なあ、兄さ、日銭かせぎはあてにはならん。今年のように雪が多ければ仕事がないし、このままではとてもやっていけんわ。何とかして水を引いて田んぼをふやそうやないか。」
 すると、兄の方も、
「うん、わしもこの間からそのことを考えておったところよ。水さえ引ければ田んぼがふえる。田んぼがふえれば、米もたんととれる。」
「うん、たんととれりゃ、年貢を出しても少しは余る。そうすれば、村の人たちもどんなに助かることか。」
「そこで、この間から見ておいたんやが、釜沢の上流から水を引けば、山の上の方の高いところにも田んぼができるのやないか。」
 それを聞いた弟が、
「いや、兄さ、それは無理や。山の上の方までも水を引けるわけがない。わしが思うには、中腹あたりの山の腹をまいて水を通したらどうや。そうすれば山の半分から下ぐらいは、田んぼに出来る。」
といえば、兄は、
「いや、それぐらいでは足りんぞ。どうしても上の方まで水を引かんと。」
と、ゆずらなんだと。
「どうやってあんな高い所に水を引くのや。あの急にタアッと降りて登らんなんとこは、どうするのや。」
「ううむ。」
 そこで二人は考えこんでしまったと。
 それからというもの、二人の兄弟はの、仕事の合い間をみては、水の取り入れ口はどこにするか、どこを通して、どのように工事をすすめたらよいかと、調べてまわったそうな。そうして、とうとう二人は、用水を二本つくることにしたと。
 もちろん、こんな大工事は、二人だけでは出来ん。そこで、秋のとり入れがすむと、二人は、さっそく村の人たちに相談したと。ところがの、
「水は高いところから低いところへ流れるもんや。そんなとんでもないこと、出来るはずがないわ。」
「そりゃあ田んぼはほしいけど、川から山へ水を引くなんて、夢でもみたのやないか。」
と、誰も相手にしてくれん。
「かりに水が引けるとして、いったい何年かかるのや。」
「そんな大仕事をやっとったら、百姓ができんやないか。」
「そうや、そうや、みんな、田んぼができる前に死んじまうわ。」
 用水を引くことは誰もが願っていることなのに、村の人たちはの、この兄弟の計画を聞いて、とても出来ることではないと思ったのや。
 けれども、兄弟はあきらめきれんでの、仕方なく二人だけで工事を始めたと。
「どうせ、途中でやめるくらいのこっちゃ。」
「ばかなこと始めおって。そんなひまに銭をかせがにゃ、年貢も出せまいに。」
と、村の人たちは本気で考えてはくれなんだ。
 なかには、兄弟のことを心配して、
「そんな大仕事、できるこっちゃない。今のうちにやめんさい。」
といいにくる人もいたと。

けれども、兄弟は、毎日夜があけるから日が暮れるまで、せっせと用水づくりを続けたそうな。たくさんの田んぼができるのを夢みての。
 なにしろ、今のように機械を使うわけやない。つるはしやとうぐわのような道具では、なかなか工事もはかどらんわいの。それでも、兄は上の方、弟は山の中腹に向って、少しずつ、堀りすすめていったと。けど、よう見たもんやの、釜沢の上の方は山ん田より高いっちゅうことを。
 井林の岩まじりのところでは、大へん手こずっての、たった一間掘るのに何日もかかった。こんなふうではいつまで続けれるかと不安になったと。それでも兄弟は、雨の日も風の日も、工事を続けたそうな。
 どうにか井巾まで掘りすすんできたがの、ここから先は曲がりくねったところが多いし、高い低いもようわからん。そこで兄弟は、井巾から山の田までを一望に見渡せる、上平の西の端の高いところにのぼって見たと。
「兄さ、これからが大へんやなあ。」
「うん、これからがえらいぞ。山ひだがたんとあるでなあ。」
 兄弟は、日焼けした顔を見合ってうなずいた。二人は、向い側の山肌をじっと見つめておったが、高い低いがどうもよくわからん。
「めんぱ、持ってこい。」
 突然、兄が大声で叫んだと。
「めんぱ? めんぱでどうするのや。」
「うん、めんぱに水を入れてはかるぞ。」
 兄弟は、大きなめんぱにいっぱいの水を入れ 向いの山の方にさし出しての、水の水平を我が目でためしながら高低を測量したそうな。そうやって水路の位置を決めていったと。それで、今でもこの付近をためし坂とも、思案坂ともよんでおるのや。
 二人はまるで憑かれたようにせっせと働いたと。兄と弟が別々の水路を掘っているのだから、なかなかすすまなかったがの、水路は着実にのびていったと。
 何年かたって、山の田の山肌で働く二人の姿が、村からはっきり見えるようになった。「ありゃあ、気ちがいや、たわけや」といっていた村の人たちも、二人の仕事ぶりを見ているうちに、「これは本当に水が引けるかもしれん」と思うようになったと。一人、二人と工事を手伝う者が出てきたそうな。
 ところが、兄の方は無理がたたったせいか、用水の完成を目前にして病死してしまったと。
「もっとはよう手伝っとりゃあよかった。」
 村の人たちは後悔し、ねんごろにとむらったそうな。
 それからは、村の人たちも本気になって工事に取りくんでの、みんなが手伝ったので、弟の井の方は兄の井よりも工合よく出来たらしいの。兄弟が工事を始めてから、もう七年もたっていたそうな。
「水がくるぞ。」
「ほんとうだ。水だ、水だ。」
「田んぼができるぞ。」
 きらきら光って流れてくる水に、みんなはおどりあがって喜んだと。
 さて、いよいよ山を切り拓いて田んぼづくりを始めようと、村の人たちが集まっての、弟の考えを聞きながら相談していたときのこと。突然、村に役人がやって来て、弟をどこかへ連れていってしまったと。弟は、それきりもどってこなんだそうな。
 役人はの、こんなおそろしい、りこうなやつを村においといては、何をしでかすかわからんといって、弟を連れていったものらしい。
「用水を引くのが何でおそろしいことか。用水のできたおかげで田んぼができたのに。」
「むごいこっちゃ。用水をつくっただけで、田んぼ一まいもつくれずに連れていかれるなんて。」
 つぎつぎとふえていくだんだん田んぼを見ながら、村の人たちは悲しんだ。
 それからのち、この二人の兄弟のことをしのび、その業績をたたえての、この用水のことを「兄の井、弟の井」とよぶようになったそうな。

文・笠木 由紀子
絵・加藤  公雄

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