源斎岩



 千旦林の木曽川のほとり、恵那峡のきりたった岩かべを見おろすところに、「源斎岩」という岩屋がある。これが豪勇無双をもって名をとどろかせた吉村源斎のとりでのあとじゃ。
 源斎は本名を吉村太郎左衛門氏勝といって、戦国動乱の時代を生きた侍の大将じゃった。
 坂本は茄子川の在に生まれたが、生まれたときの体重がなんと四貫匁(十五キログラム)、オギャーッとひとこえうぶ声をあげると、そのまますたすた歩きだした。とっとことっとこあるいて行くが行くが、だきとめるひまもあらばこそ、木曽川の断崖からえいっとばかりに飛びこんで、ゆうゆう十町(約一キロメートル)ばかりもおよいで、すずしい顔をして川から上がったというで、こりゃ、ただものであろうはずがない。
 十三の年にゃ西国へ遊びにいって、各国々のようすを見てまわった。その帰り、今の東雲橋のあたりまできてはっと気ついた。長い旅じゃったというに、家へのみやげをなんにも買ってこなんだ。
 どうしたものかと木曽川を見おろして思案にくれておったと。したらば、すぐ目の下の淵に体重六尺(約一・八メートル)はあろうかというどでかい鯉がゆらりゆらりとおよいでおった。源斎はやにわに着物をぬぎすて、ふんどし一ちょうになると、そばにあった三十貫匁(約百十二キログラム)の大石を、
 ゆんさ、ど、こらしょ
ともちあげ、そのまま淵へ身をおどらせた。水の底にしずんで、流れにおしながされぬよう大石をだいて足をふんばると、ぐいぐいぐいぐい瀬をおしきって川をさかのぼる。鯉は水しぶきをはねとばして逃げまどったが、源斎の勢いにはかなわん。たちまち源斎にとびつかれ、ふんづかまえられてしまったのよ。源斎はいけどりした大鯉をみやげにして、意気ようようと家に帰ったということじゃ。
 十五歳のときには伊勢まいりにいった。お伊勢さんの五十鈴川に、たばこ入れの根つけにちょうど手ごろな石がころがっていたので、ひょいとつまんで持ってきた。その石が「源斎の根つけ石」といって、今、恵那市の稲荷神社にまつってある。重さは二十貫匁(約七十五キログラム)もあろうという、まん中がちょっとへこんだ石じゃ。
 十六の年には身長が六尺をこえた。ある晩げに、となりの家のばあさまが源斎にるすばんをたのんで、買い物に出かけていった。
「はらがへったら、そこらのもちでも食べてくりょ。」
と言いおいてな。
 さて、ばあさまが帰ってきてみると昼間ついておいたふたうすのもちがあとかたものうなっとる。
「はてーっ、おらのもちはどこへいったよ。」
「わしがよばれた。」
「ふ、ふたうすのもちをぜんぶかよ。」
「うん、ぜんぶよばれた。うまかった。」
 ばあさまはこしをぬかした。
「なんたら大ぐらいじゃ。力も人なみはずれておろうが。いっぺんおらに見せてくりょ。」
「そんならもちをよばれたおかえしに、ひとつお目にかけるとしよう。」
 よっこらしょと立ちあがった源斎は、そこらの庭石をげんこつでたたいてまわった。
 ぼこん、ぼこん、ぼこん
 げんこつの大きさだけのあながいくつもあいた。

 大人になった源斎は多くの侍をめしかかえ、坂本いったいに勢力をはる大将になっていた。
 源斎はただ力が強いというだけでなく、家来や百姓衆といっしょになって野山を開墾し、農作業にうちこんで村々のくらしを豊かにした。
 甲斐(山梨県)の武田信玄は源斎の勇名を聞きつけて軍師に招いたが、源斎は、
「いくさは好きでござらによって。」
といってことわった。二度三度と使いを出したが、がんとしてうけつけない。信玄ははらを立てた。へたに敵がわにつかれるよりは、いっそのこと滅ぼしてしまえと、大軍をさしむけた。
 源斎は家来や百姓衆をいくさに巻きこむことをきらって、ただひとり木曽川べりの岩屋をとりでにたてこもった。おしよせる武田の軍勢を相手に勇かんにたたかったが、ついにうち死にした。
 今も、この源斎岩のとりでのあとから、焼けた米や茶わんのかけらが出土して、源斎のありし日の物語を伝えておるのじゃよ。

文・桑田 靖之
絵・藤原  梵

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