おやつ

千旦林の八幡神社の参道には、両がわに杉の大木が立ちならんでおる。子どもが、五人がかりで手をつないでも、かかえきれんほどふとい杉もある。
 なかで一本は、かみなりが落ちてみきがさけて、ねもとが、やけこげのがらんどうになっておった。子どもたちにとっては、こたえられん遊び場よ。やれかくれんぼじゃ、ままごとじゃと、杉の木のうしろに集ってきては、遊びほうけておった。
 また、その木のほとりに、つめたい清水がわき出しておってな、おまいりの人たちは、ここで手をあらい口をすすいで、身をきよめてから、とりいをくぐるのじゃった。それで、村人たちは「祈願書の井戸」とよんでおった。
 その井戸には、いつも白木のひしゃくが、おいてあったで、子どもたちも、遊びつかれてのどがかわくと、その井戸へいっては、のどをならして、水をのむのがたのしみじゃった。
 その水がまた、よう澄んでおって、きれいなことといったらない。水面がぴーんとはりつめて、まるで鏡のようじゃ。水鏡といってな、本物の鏡が手に入りにくかった昔に人には、なくてはならんだいじなすがたみだったのよ。女の子たちも、ちょっと年かさになると、この井戸へいっては、自分の姿をうつしてみた。髪に桃の花をさしてみたり、柿の花の首かざりをつけてみたりして、時をすごすのじゃった。
 おやつは、色白で目もとのすずしい、とろけるようにかわいげな女の子じゃった。まいにちまいにち、井戸の水鏡に姿をうつしては、一日中でも、うっとりと自分お姿にみとれておった。
「もっともっとうつくしゅうなりたい。神さま、どうぞお願いします。わたしを、もっときれいな女の子にしてください。」
そういっては水鏡をのぞいておった。
 年ごとにおやつは、ますますうつくしくなり、今では「村いちばんのきりょうよし」といわれるむすめになっていた。それでもおやつは、まんぞくできない。
「もっともっと、日本一のきりょうよしといわれるようになりたい。神さまどうかおねがいします。」
と、おいのりをつづけておった。
 その日もおやつは、いつものように祈願所の井戸へいって、自分の姿をうつしていた。椿の花が散り落ちるころじゃったというで、春もおわりのころおいじゃろ。おやつは、椿の花を糸にとおして首かざりにし、それを首にかけて、水にうつる自分の姿にみとれておった。
 そのとき、さあっーと風が吹きわたったかとみると、井戸の水面にこまかいちりめん波が立った。もちろん、それと同時に水面にうつったおやつの顔もちりめんのようにちりちりにこわれてしまった。
 おやつはぞーっとした。ちりちりにしわがよった自分の顔の、なんというみにくさ。ぽっちゃり色白のほほも、黒目がちのすずしい目もとも、しわくちゃにうつってくずれてしまっている。年をとったときの自分のみじめな姿が浮かんできた。死んで土にうめられて、くさってくずれていく自分の顔がむごたらしく見えてきた。
 おやつはまっ青になり、がたがたとふるえだした。顔がゆがみ、いきがつまっりそうになった。「うつくしくなりたい」という一念でひたすら張りつめてきたものが、たちまちしぼんでしまった。
 おやつはたましいのぬけた病人のようにほうけて、ふらふらと歩きはじめた。気がついたときは、たったひとりで、けわしい山道をのぼっていた。日はとっぷりとくれて、はるか下の方に村のあかりがちらついている。
 どれだけ歩いたことか、まっ暗な森のなかをさまよって、もう一歩も歩けなくなった。
 おやつは若葉のこずえをわたる風の音を聞きながら、きりたった断崖の上に立っていた。

「おやつがおらん。」
「おやつはどこへ行った。」
「山の方へのぼっていくのを見た。」
「神かくしじゃ。」
「神かくしじゃぞーっ。」
 村中がおおさわぎになった。手に手にたいまつをかざして山がりがはじまった。
 チチンガ、ボガンガ
と、かねやたいこをたたいて、おやつの名を呼びながら、山の中をさがしまわったのじゃ。
 三日三晩さがしたが、とうとうおやつは見つからなんだ。

 あれからもう百年の余もたった。八幡さまの大杉はかれて、とうとうねもとから切られてしまった。
 おやつのゆくえはだれもしらない。
 六地蔵川をさかのぼったあたりは「おやつ谷」とよばれて、このかなしい物語のなごりを今にとどめておるのじゃよ。

文・桑田 靖之
絵・高橋 錦子

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