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優美な祭りから奇祭まで
個性あふれる伝統の祭り

伝統の祭り天下の奇祭
 中津川の春は、蛭川地区の杵振祭りから始まります。「ソーイソーイ」のかけ声とともに、色鮮やかな衣装を身にまとった、杵振踊りを披露する行列が安弘見神社へと進みます。
 夏、中津川のまちはおいでん祭でにぎわいます。今や中津川を代表する風流踊りは、苗木遠山家の土蔵から発見された一枚の絵図から再現されたもので、雨乞の踊りといわれています。
 秋は、豊作を祝う花馬祭りが行われます。神社の境内で、馬の背中に飾られた花串を奪いあう「花取り」で、祭りはクライマックスに。取った花は庭や田に刺し、家内安全や豊作祈願をします。
 中世から続く奇祭なめくじ祭(加子母)や、古の旅人気分を味わう中山道宿場祭りなど、どの祭りも、一度はみていただきたいものばかりです。

市民の手でつくり出された
新しい伝統の継承者

優美な祭

 「市制35周年を記念し、新しい中津川の顔となる祭りが作りたい、市民が参加して楽しめるイベントを作りたいという思いから、JCや観光協会、学校、そして各地域の方々とみんなで作り上げてきました」その様子はNHKで全国放映。当時小学生だった子供たちは、今ではお父さん、お母さんになっているでしょうか。「風流おどりの蓮も増え、地域にしっかりと根付きました。そして万博に出演したり、県内外からも『風流おどりは中津川の祭り』と認知されてきている実感があります」風流おどりを踊る人、祭りを楽しみにしている人、裏方で支えてくれる人、いろいろな人の思いがひとつになり、歴史を刻んでいます。



伝統とともに受け継がれていった
本質を大切にしたい。

杵振踊り
優美な舞で、中津川に春を告げる杵振踊り
 その歴史が、400年とも南北朝時代に遡るとも伝えられている、蛭川の杵振踊り。「昔は、蛭川の青年団が中心になって踊りを継承していました」と、若かりし頃を懐かしむように語る山田次男さん。蛭川に生まれ育ち、杵振踊りを次の世代へと受け継いできたひとりです。4月16日に最も近い日曜日に開催される杵振踊りは、蛭川の代名詞、天下の奇祭として知られています。「杵振踊りは足の運びが重要です。見よう見まねでは踊れません。先輩から教え込まれ、踊れるようになります。昭和40年代の半ば頃からは、地域全体が協力して祭りを維持するようになりました。」その後、教育にも伝統芸能が取り入れられ、蛭川中学校の卒業生ならみんな踊れるのだそうです。「杵振踊りは蛭川の誇り」と答える若者たちに目を細める山田さん。「祭りの日だけは、遠くに住んでいる人も戻ってきます」
 歴史が長ければ長いほど、その姿を変えていく伝統芸能。「杵振踊りも本来は獅子舞でした。杵振踊りは、剣の舞いとも、五穀豊穰・子孫繁栄を祈る踊りともいわれていますが、私は後者だと思います。踊り手は、厄年を迎えた数え年25歳の男子。踊りの「役」をすることで「厄」を落とすといわれていますが。村の伝統を祭りを通して次に伝え、本当の大人になる、蛭川を支えていく者になるといった、通過儀礼だったのではないでしょうか」伝統を継承する者は、踊りの形を伝えていくだけではなく、その根底に脈々と受け継がれてきた精神も伝えていったのだと語る山田さん。「祭りの姿、踊りの形が少しずつ変わっていくのは当たり前です。でも、その本質は変えてはいけない。それを受け継いでいかなければ」
 中津川に春を告げる「杵振踊り」。今年もたくさんの男達が、伝統を継いで舞います。


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発行:岐阜県中津川市