むかしむかしの話だ。吉野朝のころのことだというから、今から六百年も前のことだ。
そのころ、峰翁祖一という和尚さんがいた。岩村の大円寺を開いた和尚さんで、京都の有名な和尚さんと並ぶほどの高僧であった。
この和尚さんが、阿木の行事岳のふもとに、大禅寺という寺を開いた。徳の高い和尚さんだったので、説教を聞きに来る村人は、いつも堂にいっぱいだった。
ところが、この寺にも困ったことが一つあった。それは、この寺をめぐるように流れている川だ。急な流れで、本堂の前のあたりには滝もあって、激しい水の音が寺にひびいて 和尚さんの話も聞きとれないほどだった。
「今日も、いいお話だったなあ。ありがたいことだ。」
「そうか、わしはうしろの方だったんで、よく聞けなんだわ。」
「そうや、わしもや。川の音が苦になってなあ。」
こんな話が、村人の間にひろまっていった。うわさを聞いた和尚さんも、
「そうに違いない。話をしているわたしでさえ、苦になるんだからなあ。」
と、言いながら、滝のほとりに立って、しぶきをあげて激しく流れ落ちる水を見つめて、「何とかならぬものかなあ。」と考える日が多くなった。
そんなある日、一人の見知らぬ老人が、村人にまじって、祖一和尚の説教を聞いていた。説教が終わると、
「和尚さん、よいお話を聞きました。それにしても、川の音がじゃまになりますなあ。」
と言う。祖一和尚は、
「そうなんですよ。何とかならぬものかと、毎日思案はしますが、この滝の音ばかりはねー。」
と、困りはてた表情だった。老人は、
「和尚さん、よいお話を聞いたお礼に、わたしが川の音を消してあげましょう。」
と、言った。和尚さんは、老人の言葉に驚きながらも、「無理なことだ。とてもそんなことはできるものではない。」と言った顔つきで、老人を見ていた。
しばらくすると、にわかに空が曇ってきて、あたりが暗くなり、激しい雷がなりわたったかと思うと、老人の姿は竜に変って、折からの稲妻に光りながら天にのぼっていった。それから大雨が降り出して、三日三晩降りつづけた。
和尚さんも、村の人たちも、どうなることかと、気が気でなかった。
四日目、降りつづいた雨が止んだと思うと、さわやかな朝になった。空の色は、もう秋かなと思わせるほど澄んでいた。祖一和尚が、いつものように庭に下りて、滝の方へ行こうとすると、滝の音が聞こえない。静かなものだ。不思議に思いながら、川のそばまできて驚いた。激しい水音をたてて、流れ落ちていた滝がなくなっている。さらさらと静かな流れが、朝の光に輝いているのではないか。「これは、どうしたことだ。」と思って、川に沿ってくだっていくと、一キロほどしたところに滝がうつっていた。三日三晩降りつづいた雨で、滝はそのまま一キロも川下へ流されていたのだった。
和尚さんは、「不思議なこともあるものだ。さてさて、あのご老人はいったい何者だったろうなあ。」と不審に思いながら、「それにしてもありがたいことだ。これからは、みんなに静かに話が聞いてもらえるなあ。」とよろこんだ。
集まってきた村人たちも、あまりの変りように驚きながら、
「これはきっと、神様のしわざだ。」
「和尚さんがりっぱな和尚さんだから、和尚さんの願いを、土地の神様がきいてくださったのだ。」
「そうだ、そうだ。それに違いない。」
などと、話しあった。
今も行事岳のふもとの林の中に、村人たちが竜泉寺蹟とよぶところがある。大禅寺はここにあったということだ。
文・大島 虎雄
絵・藤原 梵