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美濃から木曽へ、木曽から飛騨へ
人と文化を運んだ中山道

旅人が行き交った道の文化
 江戸時代、京と江戸を結んだ中山道。中津川市には三つの宿場があります。
 江戸から数えて43番目、木曽11宿最南端の馬籠宿。急峻な山に開けた宿で、文豪島崎藤村のふるさとです。「宿場の景観を後世に残したい」という住民の希望で、今なお江戸の趣きを伝えています。
 44番目の落合宿は、全長400メートルほどの小さな宿ですが、木曽路への入り口として重要な宿でした。本陣の間取りが当時のまま保存され、火事見舞いに加賀藩から贈られた表門は、加賀百万石の繁栄ぶりをうかがわせます。
 45番目の中津川宿は、厳しい木曽路を越えてきた旅人が、笠を買い替える宿でした。宿の長さは約1100メートル。旅籠は29もあったと伝えられています。今もうだつの上がる町並みが残り、交通の要衝として、商業の町として栄えた中津川宿をしのぶことができます。

歴史のある町に育ったという責任

中津川宿のかたりべ

 現在20名の会員を擁する、中山道歴史案内ボランティアの会では、視察や研修、観光で中津川に訪れた人の歴史案内活動をしています。吉田三郎先生(中津川市史編纂員)が講師を務めていた歴史案内講座の受講生が中心となり、結成されました。
 「最近はインターネットなどで下調べをしてくる人も多く、そういう人にはより専門的な説明が必要ですし、初めて中津川の歴史を聞く人には、できるだけ面白く、興味を持っていただける説明をしなければいけません」と語る、会長の岩久鐐次さん。メンバーとともに、中山道を歩いたり、馬籠、付知、加子母を訪れ、ガイド資料作りも行っています。



中山道屈指の宿場 中津川宿


 「中津川宿は、古代は東山道、近世は中山道が通り、飛騨や三河にも通ずる交通の要衝として、とても重要な宿場でした。当時の資料には、その町並みは約1000メートル(十町七間)、人口は約千人、旅籠は29軒あったと記されています。そして東濃を代表する商業のまちとしても栄えました。」と語るのは、ボランティアガイドの岩久さん。「美濃の東端に位置し、木曽谷や苗木藩の村々を擁する中津川は、物資の集積地でした。主には塩や穀類、衣類や木製品などを扱う商業のまちで、市も立ちました。和宮お輿入れの行列で塩が値上がりし、中津川の豪商達が巨額の利益を得たというのは有名な話です」
 中津川の旧家には、近世の中津川を知る上で重要な資料が多数残されており、かつての中津川宿の繁栄ぶりを生き生きと物語ります。その多くは「中津川市中山道歴史資料館」に展示・保管されています。「中山道は「姫街道」の別名がある通り、京からの姫方のお輿入れ行列がたくさん通行しました。中でも前代未聞と言われたのが和宮降嫁です。和宮の宿泊場所となった本陣市岡家では、上段の間、床の間、ふすまはすべて張り替えられました。また畳表の間に真綿を入れた畳に替えています。真綿入りの畳は踏み心地がよく刀を突き刺しても貫通しないために、長旅で疲れた和宮をいたわる気持ちと警護のために、真綿入りの畳にしたようです。ここからも中津川宿の繁栄ぶりを知ることができます」中津川本陣の広さは美濃16宿のうち最大で、その広さを維持するだけの資力があったことがわかります。和宮の降嫁行列に同行した江戸城大奥の老女花園が、間家の親切なもてなしぶりに感激し、その後の手紙のやり取りをしてます。花園からの手紙には、間家から送られた茄子の辛子漬けがおいしかったこと、木曽の櫛が使いやすいことなどが綴られています」花園からはお礼として将軍家特注の浮世絵などが贈られています。「身分制度が厳しいこの時代に、一町人と江戸大奥老女が親しく交流していたというのはほかに例がありません。和宮降嫁に同行するという大役を任された花園にとって、中津川宿で受けた心づくしのもてなしが心に残ったのでしょう。」
 街道とともに栄えた中津川。旅人を迎え、もてなし、送り出す宿場が育んだ人柄は、今も中津川の人の心の中に生きています。


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発行:岐阜県中津川市